Chapter.12 お店を開けていいのか

佐久間も水島も、それぞれの家に帰った。
スタッフのひとりが、避難場所の体育館にいるという連絡が入った。
佐久間はクルマでその体育館に赴き、スタッフを自宅に連れ帰った。
体育館はあまりにも寒かった。
それでも大勢の人たちが避難してきていた。

福島第一原子力発電所が、津波に襲われたことはニュースで知った。
原発だけじゃない。
宮城や岩手の沿岸部は、巨大津波に襲われていた。
ニュースで流れる映像に、佐久間は絶句した。
この世のものとは思えなかった。

夜。
寝ているときにまた大きな地震があった。
すぐに外では騒ぎが始まった。
「津波だ」「津波が来るぞ」「津波だ」「津波だ」
たくさんの人たちが逃げていく。
佐久間も逃げた。家族と一緒にスタッフも逃げた。一生懸命、走った。

翌日は雪だった。
佐久間はスタッフの家族を一緒に探すために同行した。
スタッフの家のある方へ行けば行くほど、地面は海水で覆われていく。
あるところまで来ると、消防団の隊員に行く手を遮られた。
「ここから先へは入れないよ」

なにも、なかった。
家々が立ち並んでいたはずの場所が、瓦礫だらけになっている。
佐久間はスタッフの祖父の家に向かい、スタッフを送り届けた。

3月12日15時36分。
福島第一原子力発電所1号機の建屋が、水素爆発で吹き飛んだ。
その情報を得た佐久間も水島も、死を身近なものとして認識した。
地震のときも確かに死を感じた。
しかし、今度はもっと深刻だった。
放射能。

「とりあえず西へ逃げろ」
そんな情報がまわってきた。
西とは、山の方角。海とは逆方向に逃げろ、と。
佐久間は、川俣町の『道の駅』にたどり着いた。

雪は、相変わらず降っていた。
佐久間はその雪の中を歩いた。
傘などなかった。
だがその雪に、水素爆発でまき散らされた放射性物質が多量に含まれていた。
セシウム。ヨウ素。ストロンチウム……。

さらにその翌日。
雪はやみ、打って変わって暖かな陽光が降り注いだ。
佐久間は「ちょっとひなたぼっこでもしようか」と、外に出た。
もちろんその日も、放射性物質が大量に空気中を舞い飛んでいた。
だが、政府はテレビを通じて言いつづけていたのだ。
「ただちに人体に影響があるわけではありません」

3月28日の月曜日だった。
佐久間のケータイにお客さんから電話があった。
「お店、開けないんですか」と。
その翌日の29日。
今度は美容組合の人からも電話があった。
「いづまで休んでんの?」

佐久間は驚いた。
「えっ、お店やってんの?」
「やってるよぉ。5軒、開けてるよ」

やっていいのかなぁ。
それが佐久間の本音である。
状況は日々、変化していた。
あの日、自宅に泊めたスタッフの家族は、帰らぬ人となっていた。
日々刻々、想像を絶する被害が明らかになっていく。

だか、それでも組合の人は言うのだ。
「大丈夫だよ」
佐久間はそれでも逡巡していた。
「人、いんのかなぁ(人はいるのかなぁ)」
福島からは続々と、人々が県外へと避難していた。
だからお客さんがいないのではないか、と。
「いや、人はいない。けど、お客さんは来んだ」
組合の人のその言葉が、佐久間の背中を押した。
「よし。じゃ、オレも帰るわ」

お店の片づけが始まった。
水島もそれに参加した。
2011年4月1日。
震災からきっかり3週間後の金曜日に、
『ベレッツァ』は営業を再開した。

 

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